2009
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昭和二拾年八月

9thAug_Nagasaki0.jpg
1945(昭和20)年8月9日午前11時2分、長崎市内にて

私は教師でも歴史学者でもないので、ただコピペしてみます。

「特別攻撃隊」 斉藤茂吉

大元帥統べたまう軍のいきほいの最中かがやくこのいつくしさ
きはまれる大き行為を端的の捨命のごとくわれもおもはむ
あめつちに至りわたれるたましひをわが戦にまのあたりにす
微塵なすかろき命といふ比喩もはや空々しこのたたかひに
大君は神にいませばうつくしくささぐる命よみしたまへり


「文芸春秋」昭和20年1月号 より



「私は昭和二十年だ未曾有の年だ」 武者小路 実篤

私は昭和二十年だ未曾有の年だ、
私の歴史はまだ白紙だが、
どんなことがその上にかかれるか、
一年たてばわかるわけだ。
其処にはどっちにしても、
大変なことがかかれるわけだ。


「文芸日本」昭和20年2月号より、同詩の冒頭部分



「敗戦日記」 高見順

8月7日

新橋駅で義兄に「やあ、高見さん」と声をかけられた。
 「大変な話・・・聞いた?」と義兄はいう。
 「大変な話?」
 あたりの人をはばかって、義兄は歩廊に出るまで、黙っていた。人のいないところへと彼は私を引っ張っていって、
 「原子爆弾の話・・・」
 「・・・!」
 「広島は原子爆弾でやられて大変らしい。畑俊六も死ぬし・・・」
 「もう戦争はおしまいだ」

原子爆弾をいち早く発明した国が勝利を占める、原子爆弾には絶対に抵抗できないからだ。そういう話はかねて聞いていた。その原子爆弾がついに出現したというのだ。・・・衝撃は強烈だった。私はふーんと言ったきり、口がきけなかった。対日共同宣言に日本が「黙殺」という態度に出たので、それに対する応答だと敵の放送は言っているという。


8月9日

4時過ぎごろ、林房雄が自転車に乗ってきて、
 「えらいことになった。戦争はもうおしまいだな」という。新爆弾のことかと思ったら、
 「まだ知らんのか。ソ連が宣戦布告だ」3時のラジオで報道されたという。

永井(龍男)君が来た。東京からの帰りに寄ったのである。緊張した表情である。長崎がまた原子爆弾に襲われ広島より惨害がひどいという。二人のものが、同盟と朝日と両方から聞いてきて、そう言ったから、うそではないらしい。

避難の話になった。もうこうなったら避難すべきときだということはわかっているのだが、誰もしかし逃げる気がしない。億劫でありまた破れかぶれだ。
 「仕方がない。死ぬんだな」



286 名前:スレストッパー ◆kazex.JA 投稿日:02/08/06 08:41

私は小学生の時同級生が死んだよ。中学の音楽担任と教頭も原爆症で休みがちだった。
高校の時、暮らすに禿の女の子がいたよ。オランウータンのような頭だったが痛々しすぎて誰も話題にすることがなかった。
かつらを被ることもなく、その頭で登校し続けた
彼女は勇気ある女性だったが25歳で生涯を終えた。

指の爪の黒い同級生がいたよ。気持ち悪いといじめられていた。
3世であることを明かせば広島ではいじめられなかっただろう。
だが、彼女は3世であることをひた隠しにした。差別に苦しみ続けた祖父母の固いいいつけだったそうだ。
年を経て彼女は結婚し、生まれた子供を6歳で亡くした。


裏手に住んでいたおばあさんは花火を怖がる。そして蛍光灯をつけるたびに身をすくめ顔を手で覆う。
あの日の瞬間を忘れることができないのだと語った。
彼女の息子は某大手の電気メーカーに就職内定し、直前で取り消された。


私が身近で見聞きしただけでも数えあげればきりがない。
それだけたくさんの悲劇が、未だ残存し続ける。目をすむけてはならない事実だ。




「流灯」被爆者の描いた絵
http://h-s-o.net/ryuto/ja/drawings/index.html
1974年と1975年、NHKが「市民が描いた原爆の絵」を募集した際に、2000以上。
2002年に広島市、NHK、中国新聞社が共同で募集した際に、1500以上の応募がありました。
ここでは、そのごく一部を紹介しています。


あの日を忘れない―描かれた東京大空襲
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5 強烈
5 あまりに凄惨な事実…
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