2015
08
23

ご先祖様の軍務・戦争記憶メモ

Heavy-cruiser_Ashigara_1937.jpg

戦後 70 年の節目に、ご先祖様の軍歴等についてのメモ。

ここ数年、お盆の度にまとめようと思うも、毎年なかなか実現しない。
当時を知る方々や、その記憶も、今や彼岸の彼方へ去りつつある。
「いつか」の夢想より、ブログ掲載化で自分を強制作業に追い込んでみた。

と言う訳で、完全なる内輪話のメモ書き。
私家版なので一々の続柄は記さず、文章転載不可で。
なお政治的な視野には、一切与したくありません。

○帝国海軍 (機関)中尉
日米戦以前からの軍属で、軍務を全うし、戦後は公務員として働く。
明治四十一年生まれ、家族(娘)によれば中尉(昭和十五年頃)らしい。
大正からの軍属であれば、勅令第10号による改称進級だろうか?
他の可能性としては、工機卒特選制度による進級かもしれない。
娘は「機関長だった」とも言うが、むろん聞き間違い等の誤認だろう。
機関科の古参分隊士に相応とすれば、掌機・機械・電気長などか?

それら階級・所属科について「特務とか機関中尉?」と尋ねても
「そんな長い名前ではない、ただ『ちゅう~』だった」としか判らない。
勤務から殆ど在宅せず・女系家族でもあり、その辺は定かでない。

☆勤務地・勤務艦、その他の話
横鎮から戦中に大湊へ転勤、終戦間際はに居り、終戦直後は横須賀へ。
生前、本人から良く聞かされたのは
五十鈴では宮様と一緒だった」「鳥海にも乗った」
「呉での休暇中に陸軍大尉と大喧嘩になり、共に入院した晩に市街大空襲
「宮様を占領軍から守るため入院させ、入院士官は護衛・当番を勤めた」


また、(私の)初の海外旅行(シンガポール)土産の持参時に
「海軍でシンガポール、アリューシャン、ロンドンにも行ったぞ」と聞く。
「ロンドン?」を問うと「戦前に戴冠式」「ロンドンは本当に霧の街」

 ☆家族(当時小学生)の話
紀元二千六百年(昭和十五年)の祝祭時は横須賀に住んでいた」
「昭和十五年、(復興物資の関係で寄港?)釜石・宮古で父と会った」
三陸津波から七年後だが、復興物資運搬?を海軍も担っていたようだ
なおその際、家族は山田線を北上したようで、被災各地の記憶がある
「昭和十八~九年頃、少しの間大湊に住んでいたが、その後は疎開」

以上から類推するに
大正十二年:軽巡「五十鈴」勤務、華頂宮博忠王も同艦に勤務される
昭和十二年:重巡「足柄」勤務ジョージ6世戴冠記念観艦式に臨む
昭和十五年:練習巡洋艦「香取」ないし「鹿島」勤務、同年航海訓練を指導?
昭和十七年:重巡「鳥海」勤務、南遣マレー支援を経てシンガポール入港?
昭和十九年:重巡「足柄」勤務、アリューシャン方面警備に就く?
昭和二十年七月:勤務艦不明、一日深夜の呉市街空襲で九死に一生を得る
同年終戦時:横須賀海軍病院入院、華頂博信 殿下の自主的警護に加わる

巡洋艦「足柄」 カラー映像

この場に居たかと思うと、感慨深い。

※周辺考察
現実には詳細不明だが、周辺話や勤務艦の記録等から類推してみた。
機関科での専攻があった?第四戦隊他の巡洋艦に勤務の傾向か。
当初「宮様」を同一と混乱したが、共に伏見宮家出のご兄弟に思われた。

私が「高雄」級好きで、同級の勤務艦を聞いた際に「鳥海」と知る。
Heavy-cruiser_Chōkai
重厚だがクリーンな造型の、「高雄」級の艦橋周りデザインが好きだった。
Heavy-cruiser_Takao_1939.jpg
知識がなければ、現在のイージス艦と言われても判らないだろう。
今回初めて、こんな明瞭な写真を知る。あの頃に見せたかった。

家族は昭和十一年~横須賀在住、昭和十八~九年頃大湊へ。
軍港のない岩手への寄港は、「香取」「鹿島」の航海訓練が連想された。

全くの推測だが、第五艦隊附で呉へ異動後、頻発した脚気で入院か?
同年秋のレイテ沖海戦を病欠したのが、生死を分けた可能性あり。
結構な古参分隊士なので、呉では「磐手」教官か「北上」勤務かもしれない。
ただ、幾多の作戦従事も機関科は「帰還」か「戦死」いずれかだったろう。

ちなみに「養命酒」の信奉者で、臨終の際まで欠かさなかった。
今回調べる過程で海軍(山本元帥塩沢大将)との関係性を知り、得心する。


○帝国海軍 一等水兵
戦艦「陸奥」副砲付き勤務、 昭和十二年八月、戦病死。
Battleship_Mutsu_1937.jpg

作戦行動中、運悪く急性虫垂炎を患い腹膜炎へと悪化、死亡に至る。
移転失した旧墓碑には、及川古志郎 海軍中将名での弔文が彫られていた。

山あいの農村出身者だが、複数の兄弟も海軍へ志願入団している。
地理的に不思議だったが、どうも駅には鎮守府窓口があったようだ。
また、父親は陸軍兵卒として日露戦争に従軍、大連~満州を移動の模様。
そうした苦労談を嫌い、別天地を求めた可能性も。

世相は経済恐慌大陸での紛争拡大青年将校蜂起など、混沌そのもの。
「給料が良く、高等教育の道もある」軍属は収入より希望だったのかも。
思想や職業リスク等を越え、自身や家の存続を求めた進路意志を感じた。


○帝国海軍 上海海軍特別陸戦隊 三等兵曹
第二次上海事変において戦死。
Shanghai-Naval-brigade_1932.jpg
恐らく第一次事変以前と思われる写真だが、着色や明瞭さから掲載。

陸戦隊約四千に対し、国民党攻囲軍約三万以上という、増援前の激戦下。
なお上記「陸奥」勤務者は兄弟であり、訃報は一度に届いたと思われる。

現地の葬儀写真(合同葬か)は、映画「上海陸戦隊」でのシーンが近い。
『上海陸戦隊』"Shanghai Naval Landing Force" 1-6

祭壇はこれより質素だが、より広い場所で僧侶三人が読経して下さっている。

部隊長からのお悔やみの他、部下らしきお三方からも、手紙あり。
それぞれが「自分を庇って」「自分のせいで」と記されており、意気に感ず。
また、それらを大切に保管しており、遺族の誇りと悲しみにも打たれる。


○帝国陸軍航空隊 震天制空隊 曹長
かつて記憶の墓碑によれば、昭和二十年初頭に B-29 へ体当たり戦死。
階級は戦死特進を逆算した?特攻戦死後は少尉?やや記憶が曖昧。
ただ Web 検索の範囲では合致する記録は見つけられず、詳細不明。
また墓碑も移転消失により、今は無い。

初墓参では、墓と言うより戦没者慰霊塔を思わせる巨大さに驚いた。
先祖代々の墓とは別に、二段の石垣、高さ数メートルの石塔という造り。
少なくとも当時は、帝都を護った軍神としての公報が届いたのであろう。

かつて故人の妹さん(当時十二~三才か)から伺った範囲では
「陸軍の戦闘機乗りで、昭和十九年に千葉の方の飛行場へ会いに行った」
「乗っているという戦闘機を間近で見たが、大きな飛行機だった」

以上より、整理して
当時千葉周辺の帝都防空隊:飛行 第18・23・53・70戦隊だろうか。
第18・70戦隊(帝国陸軍 柏飛行場)
第53戦隊(旧逓信省 松戸飛行場)
第23戦隊(旧逓信省 印旛 航空機乗員養成所)


機体について「大きい」と言っても、なにぶん子供(女子)の初見印象。
二式複戦のような双発機も、機首の太い二式単戦も「大きい」だろう。
Unit_shakes-the-heavens.jpg
振天隊には赤を多用した派手な塗装もあるが、その印象は聞き取れなかった。

なお昭和二十年初頭までには、防空任務の他に各地での特攻も複数ある。
また、同年二月の艦載機空襲・邀撃でも、多数の損害があった筈。
元は「 B-29 邀撃任」だが「各地での特攻」「敵機に体当たり自爆と認む」
それらを括め、戦死公報・家族の認識としての墓碑弔文とも、考えられる。

※当時の状況下では、出撃機の戦果はおろか経過の把握すら困難。
故障を含む未帰還、かつ消息不明も「攻撃敢行ないし成功」公認された。


○銃後の家族における終戦前後
疎開先にあった旧制高校で「キー115」の主翼(だけ)を生産していたとか。
Nakajima_Ki-115_Tsurugi.jpg
中学男児は、グラウンドで(全木製)翼表面をやすり掛けとのこと。
調べてみると、やや離れた地に中島の疎開工場(完成前に終戦)があった。

同地に疎開の女児は、不意の空襲警報に神社(鎮守の森)へ逃げ込んだ。
眼前の田んぼに225kg爆弾が落ち、立っていられない程の地面揺れを経験。
だが泥濘地への着弾が幸いしたか?不発で助かったという。

近年ミュンヘン市で発見された同等不発弾の爆破処理


他方、現地の伝聞(ごく一部)によれば
(別の)森に着弾・爆発、逃げ込んでいた数十人が吹き飛ばされる。
幼児を背負った母が機銃掃射(恐らくAN-M2/3 20mm 砲)を受け四散。
逃げる姿の目撃談と、樹木に引っ掛かった長い髪から現場を推定。
やむを得ず、周辺の赤黒く変色した土を棺に詰め、葬式を出したという。

同空襲は TF38 TG38.1 CV-19 Hancock の VF/VB-6 が実行。
第38機動部隊 第1高速空母群「ハンコック」艦載の第6戦闘/爆撃隊

第6戦闘隊 F6F-5 (画像は同艦隊の他部隊を再現した現代のレストア機)
F6F-5_VF-12_CV-15.jpg
VF-6 隊に近い:CV-15 空母「ランドルフ」 VF-12 所属機塗装

第6爆撃隊 SB2C-4E
SB2C-4E_VB-6_CV-19_1945.jpg
こちらは当時の同隊機そのもの、可能性としては、同機も空襲参加か。
オリジナル・ファイル
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/2a/SB2C-4E_Helldiver_of_VB-6_in_flight_in_1945.jpg

機銃掃射を受けた住民側には「搭乗員がハッキリ見えた」そうだ。
上空は薄い雲と報告があり、風防を開け、こうした距離感だったのかも。

当時既にめぼしい目標も反撃もなく、徒に「臨機目標」攻撃した模様。
※ 臨機目標=Target of opportunity :(過失を含め)臨機に攻撃許可する意
ただ明確な戦略目標のみを攻撃、市街への銃爆撃を行っていない機もある。
意識したかは不明だが、搭乗員別の報告があるので、記しておきたい。

なお周辺には陸・海軍の臨時飛行場があり、少数特攻機の出撃あり。
当初それら軍事目標限定だったが、早晩には鉄道を含む市街を銃爆撃。

※空襲以前は市街上空を素通りし、陸・海軍の飛行場へ向かっていた。
疎開女児曰く「屋根の上でB-29を数えた」「まるでクマバチの大群」
※空襲する米軍機=「B-29」の認識・全面シー・ブルー(濃紺)の艦載機

また地域によっては、同年に合流した英軍艦載機も空襲参加している。


○縁あった方
だいぶ以前、親族の上司だった方の葬儀への送迎を頼まれたことがある。
山あいの小さなお寺だったが、徳のあった方らしく、弔問にあふれていた。
雪の混じる寒い日、後輩の方々?正装姿の官吏多数は、本堂の外に整列。
それがまた、まんま第一種軍装姿で「海軍出身者の葬式みたいだ」とも。
(ちなみに、自衛官ではありません)

帰り際、初めて故人の経歴(の一部)を拝見し、言葉を失う。
空母「赤城」艦橋付下士官、ミッドウェー海戦従軍、同生還
戦艦「武蔵」艦橋付下士官、シブヤン海海戦従軍、同生還


その後の厚徳は推して知る。
「滅私奉公」とは、故人のための言葉に思えた。

在りし日の空母「赤城」
Aircraft-carrier_Akagi_1942.jpg
艦首側飛行甲板から、艦橋他を望む

映画「永遠の0」より、VFXシーン
Akagi_Battle-of-Midway_movie-VFX.jpg
映画ストーリーは陳腐で忘却、が CG 見応えあり。あと岡田くんカッコイイ。

昭和十七年当時の戦艦「武蔵」を艦首から。
Battleship_Musashi_1942.jpg
捷一号作戦前に甲板はもっと暗い色に塗り替えた、と本で読んだ記憶。

戦艦武蔵の最期


約9時間に渡るの死闘の末、静かに艦首から沈みゆく「武蔵」
down-by-the-bow-Musashi_Battle-of-Sibyuan-Sea.jpg
機関科の親族を持つ者としては、この時機関が生きているのが何より悲しい。

ポール・アレン氏の探索により、シブヤン海底で発見された「武蔵」艦橋部。
Bridge-Musashi_in_sibyan_sea.jpg

参照:MUSASHI.PAULALLEN.com > MUSASHI EXPEDITION
http://musashi.paulallen.com/


○あるいは公的に探る術
より明瞭には「軍歴証明書」取得が近道で、時間と共に困難になるのも承知。

厚生労働省 軍歴証明書の発行等の業務
http://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/hokabunya/senbotsusha/seido04/

だが私がしたいのは、公表資料の作成や真実追求ではない。
激動の時代を生き延びてくれた、ご先祖に思いを馳せるだけのもの。
仮に間違いがあっても、その時代・当家系でその認識なら、それで良い。
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